2007年11月11日
遊郭の文化とは…
遊郭の成立など本当に色々なことがありました。
今日はこのようなことについて考えました。
権力の統制と保護を受け、遊郭として1箇所に集められるのは、近世以降のことである。豊臣秀吉の治世に、遊郭を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。その5年後(1589年 天正17年)には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転した。
各地の遊郭
江戸に遊廓が誕生したのは1612年(慶長17年)である。駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋が移され、日本橋人形町付近に遊郭がつくられ、吉原遊廓と呼ばれた。吉原遊廓は明暦の大火(1657年 明暦3年)に焼失。その後浅草山谷付近に仮移転、まもなく浅草日本堤付近に移転した。前者を元吉原、後者を新吉原とも言う。
大阪の夕霧太夫のいる新町、京都の吉野太夫のいる島原、江戸の高尾太夫のいる吉原の遊廓は、三大遊廓(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)と呼称された。この他にも江戸時代には、全国20数カ所に公許の遊廓が存在した。最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原が出来た頃には300軒近い遊女屋があったと言われている。
鎖国時、唯一の西洋との窓口として栄えた長崎に、丸山遊郭が誕生したのは1639年(寛永16年)ごろ。井原西鶴は日本永代蔵に「長崎に丸山という処なくば、上方銀無事に帰宅すべし、爰通ひの商い、海上の気遣いの外、いつ時を知らぬ恋風恐ろし」と記した。南蛮貿易で潤った当時の華やかさをうかがわせる。
遊郭の文化
江戸時代初期、遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。上級の遊女(芸娼)は太夫(たゆう)や花魁(おいらん)などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。
江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。また、遊郭自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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